
新規プロジェクト——世界一の専門店づくりへの挑戦
4/20(日)
2025年
大西 洋 2025/04/07
伊勢丹に入社してからの3年間は、ひたすら店頭での販売業務に従事した。接客の基本を叩き込まれる日々の中で、常に店頭に立っていた。少しでも店頭から離れると、マネージャーから「どこに行っているんだ!」と厳しく指導され、慌てて現場に戻ることも多かった。それほどまでに、“現場の第一線”に立ち続けることが求められていた時代だった。
そんな経験を経て、4年目にアシスタントバイヤーとなった。当時、伊勢丹は業界内で売上トップではなかった。日本橋三越や池袋西武が先を行く存在であり、新宿伊勢丹はその後を追う立場にあった。特に立地面では、新宿伊勢丹は駅から徒歩で8分ほどかかるが、小田急百貨店や京王百貨店は新宿駅直結の場所に店を構えている。当然、消費者は生活に必要なものなら、小田急や京王に行けば事足りてしまう。そのため私たちは常に、「伊勢丹は、わざわざお客さまが足を運んで来てくれるお店にしなければならない」という強い意識があった。
当時、特に私が意識していたのは『西武を越える』という目標だった。人々の感性に働きかける商品の審美眼という点では、西武は圧倒的に強く、堤義明氏や水野誠一氏といった偉大な方々のもと、アートなど斬新なプロジェクトにも積極的に取り組んでいた。さらに、渋谷周辺を開発し、渋谷西武やロフトなども設立。そうした斬新な経営戦略に、彼らに追いつきたい、追い越したいという気持ちが、私の中に根付いていったのである。
当時調査のため、池袋西武を頻繁に訪れ、商品のラインナップを観察していた。伊勢丹では欠品となっているアイテムが西武に並んでいるのを目の当たりにし、「このままではいけない」と強く感じた。ちょっとした細工をしたこともある。毎週土曜日、納品のために芝浦にあるオンワード樫山の倉庫へ足を運んでいた。当時は池袋西武向け、伊勢丹新宿本店向けと出荷先ごとに商品が仕分けされていた。警備員さんと仲良くなった私は倉庫を見せてもらえたのだが、納品の現場を見ながら、自店に必要な商品が確実に届くよう調整する工夫もしていた。当時、西武の担当者も同様の判断を現場レベルで行っていたと聞いている。そうした中で、各百貨店店舗が自店の魅力を最大化しようと、それぞれに工夫を凝らしていたのだと思う。とにかく当時の大手服飾会社は、池袋西武優先で取引をしていた。アシスタントバイヤーとして私は、伊勢丹は西武よりも品揃えを良くしなければと使命感を持ち、毎週西武へ商品チェックに通い、伊勢丹の売場を豊かに保つためにできる限りの努力を尽くしていたのを思い出す。
バイヤーとしての最大の使命は、伊勢丹ならではの魅力を商品面でどう表現するかにある。年に二度行われる商品選定会では、バイヤーが各自で企画したオリジナル商品を提案する。単に新しい商品を提案すればよいというわけではない。
重要なのは、世の中の動きや消費者心理を的確に捉え、「今、なぜこの商品が必要なのか」という明確な仮説を立て、それを裏付ける根拠を示すことにある。求められるのは、高い企画力と市場感覚に加えて、時流を読み解く洞察力、そして“数ヶ月後の売場”を想像する先見性。さらに、試作・反応・改良といったプロセスを経ながら、仮説を実証していく検証力も問われる。こうした多面的なスキルがあって初めて、社内で「選ばれる商品」として採用されるのだった。そのような厳しさもあり、給与体系の面でバイヤー職は販売職よりも一段上となっていた。お客様の真のニーズを見抜き、他の店にはないものを自分たちが作り出さなければならないという意識が、非常に強かった。
4年ほどアシスタントバイヤーを務め、バイイングの基礎をそこですべて学ぶこととなった。その後の3年間で、今の自分の生き方や経営観の基礎を形づくる、最も大切なことを学んでいくこととなる。