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2025

    28歳 挑戦が教えてくれたもの

    #0928歳 挑戦が教えてくれたもの

    原石からダイヤへ

     吉祥寺のプロジェクトでご一緒したKさんからは、仕事の姿勢から人生観に至るまで、いろいろなことを学んだ。特に、「視野を広げること」、「人と出会うことの重要さ」は、Kさんの働きぶりや人との接し方を通して、自然と自分の中に根付いた価値観である。背中で語るタイプの方で、その存在感は圧倒的だった。

     のちにKさんは、1993年に小菅社長が退任したことに伴い伊勢丹を退職された。
     次期経営体制のもと多くの取締役が新たな方針に従う中で、Kさんは自らの判断で伊勢丹を離れる道を選ばれた。

     その後にたどったキャリアもすごかった。業界を超えた転身を遂げ、立石電機(現オムロン)や松坂屋、そしてワコールといった異なる業種の企業で要職を歴任された姿は、まさにその力量を物語っていた。

     伊勢丹からほかの百貨店に移り、社長を務めたOBもいるが、Kさんは業界が異なるのに副社長を務めた。それだけの実力がやはりあったのだろう。

     話を吉祥寺プロジェクトの当時に戻そう。この時期は、本当にさまざまな分野の人との出会いを経験した。アーティストにミュージシャン、飲食で言えばフレンチの巨匠・井上旭シェフ、当時、雑貨やアパレルを展開し始めていたサザビーの社長など、業界もまったく異なる人たちだった。普段の百貨店業務では得難い貴重な方々ばかりだった。

     商品展開の準備では、それまでどの百貨店も手掛けていなかった新たな挑戦に取り組んでいた。
     ユナイテッドアローズがまだできる前、当時ビームスは絶対に百貨店には出店しない方針だったのだが、経営層のところに頼みに行った。任天堂やバンダイといったゲーム業界との新たなグッズでの取り組み、さらにはサンリオの現会長のところにも行き、共同で新しい売場の構想を進めるなど、今でこそ当たり前となった百貨店の枠を超えた連携を、先駆けとして模索していた。

     さまざまな業界に歩き回って準備した新吉祥寺店だったが、あと一歩のところで、大きな壁に直面した。

     用地にはとある政党の事務所があり、彼らは最後まで立ち退きを拒否していた。交渉は難航し、プロジェクトを前に進められない状況が長期間続いたことで、会社からこのチームを一時離れるよう辞令を受けた。

     上司から、2年は他で待っているようにと言われ、営業戦略室へと異動することとなった。 しかし、残った2人が交渉に臨んだものの、この出店計画が実を結ぶことは叶わず、計画は頓挫することとなった。

     結果だけを見れば、形として残る成果はなかったかもしれない。ただ自分にとっては、この時代に受けた薫陶が、生涯の財産になったと思っている。

     外に出て、業界を越えさまざまな分野の人たちと会って、さまざまなことを学び、経験を積んだ。それまで、自分がいかに限られた枠の中で物事を見ていたかに気づかされた貴重な時間だった。

     現在私は、羽田未来総合研究所の代表取締役として、20代の社員から役員まで多様な世代と関わっているが、常々外に出ていこう、視野を広げようと呼びかけ続けている。

     人は人と出会うことで磨かれ、これからの日本を変える人材となり得るのだと確信している。

     これこそが、私の原点である。高校時代は学生運動の影響で授業をほとんど受けられず、大学時代も特に目立ったことはできなかった。私が外に出て学びたいという思いを強くしたのも、何かそういうものの反動から生まれたものなのかもしれない。

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